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「南京大虐殺」 in BBC

 BBCのサイトを見ていたら、珍しくワールドニューズのトップに中国の反日デモのことが出ていた。見出しは

Japan to protest over China riots

である。日本の町村外相が反日デモについて中国に抗議するという記事だが、riot というのがなかなかに強烈である。

_41017419_flaggetty203b.jpg
 

 その記事に出ていたのが、上の写真である。私は別に「国粋主義者」でも、いわんやいわゆる「右翼」でもない。日の丸に特別に思い入れがあるわけでもない。しかし、ふつうの日本人として、こういう写真が全世界に流れていることに素朴に「困ったことだ」と思う。
よく状況を分からない人たち(たいていの人がそうだ)この写真を見ると、「日本は中国に対してひどいことをしたのだ」と考えてしまうのではないか。
 しかも、その記事には、こうある。

Among the issues causing outrage is the description of the Japanese army's massacre of civilians in the Chinese city of Nanjing, referred to in the study books as "an incident".
Between 50,000 and 300,000 people were killed between December 1937 and March 1938 in one of the worst massacres of modern times.


 むろん南京大虐殺のことである。「大虐殺」が日本の教科書では「事件」と書かれていることが大きな「争点」だというのだが、今回の教科書検定に関して南京大虐殺に関する記述が「争点」になっていただろうか。しかも「近代における最悪の大量虐殺の一つにおいて、1937年12月から1938年3月の間に5万人から30万人の市民が殺された」というのも、相当に大雑把な記述ではないか。こういう「歴史認識」が欧米のメディアを通じて世界で共有されてしまうのは、いささか困る。
 さらに南京大虐殺については

Rape of Nanjing

という別項の「解説記事」(?)があって、くわしい説明がある。写真も何枚かあって、次はそのうちの一枚。

_41019723_nanjingditch203b.jpg


 南京大虐殺の「証拠写真」というのはたくさん世の中に出回っていて、これもその一つだ。最近、東中野修道・小林進・福永慎次郎『南京事件「証拠写真」を検証する』(草思社)を読んだ。上の写真もこの本で検証されている。この写真の初出は、1938年10月22日号の「チャイナ・ウイークリー・レビュー」で、そこには、徐州で撮影されたとあるそうだ。この本は、143枚の写真を検証して「証拠として通用する写真は1枚もなかった」と結論している。



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2005年04月17日 感想/その他 トラックバック:0 コメント:34

私は歴史は全く疎い素人ですが、5,6年ほど前に、インターネットというものに初めてハマッたのがYahoo掲示板の歴史カテゴリーにおける「南京大虐殺はあったのか」論争でした。
政治カテとかではなく歴史カテの論争だったのですが、そこには何人ものつわものの歴史マニアがいて、あれゆる資料を持ち出して論争していて、面白くてずいぶん読み、「こういう市井の専門家というのはいるのだなあ」と感心していました。
予断を持たずに読むようにしていましたが、そうした一時資料を出し合っての論争では、「南京大虐殺はなかった」派はかなり劣勢だったというのが私の印象でした。
また「なかった派」が必ず持ち出す東中野修道氏の著作も、ことごとく論破されていた記憶があります。
「南京大虐殺はあった」派には、当時南京にいて目撃したアメリカの新聞記者(確かNYタイムズ?)に電話で問い合わせるような勇者までいて、面白かったです。

ただ、掲示板という世界は議論が蓄積されず何回でも繰り返されるので、どうも不毛感が漂い、最近はどうも、巨大掲示板の黎明期だったその頃のような、迫力ある「資料出し合い合戦」による議論が少ないような気がするのが残念です。


かつてのYahoo掲示板系の論者・JOHN VOID氏のサイト
http://www5.tok2.com/home/JOHNVOID/

2005年05月09日 mowvy URL 編集

「南京大虐殺はなかった」派というのがどのような分類なのか分かりませんが、私はどのような意味でも「なかった」派ではありません。基本的には秦郁彦氏の実証的研究を信頼しています。
ただ、ここで問題にしているのは今回、中国で起きた反日デモに関係して、外国(ここではBBCですが)メディアが「南京大虐殺」を持ち出し、誤った「30万説」や、それ自体南京の写真ではないものを使って「近代における最悪の虐殺の一つ」と言及していることです。「近代における最悪の虐殺」は、いうまでもなくナチスのホロコーストでしょうか。ほかには「一つ」ということでは、スターリン時代のソ連、毛沢東時代の中国、ポルポト政権下のカンボジアなどが挙げられましょう。

2005年05月10日 元デモシカ?記者 URL 編集

> ただ、ここで問題にしているのは~

すみません。確かにそちらの意図とはズレたコメントを書いてしまいました。
文化大革命、ポルポト等が「近代における最悪の虐殺」に数えられるというのもまったく同意見です。(アフリカのコンゴ、ルワンダの大虐殺もそれに加わるでしょうか。)

コメント差し上げたのは、東中野修道という名前に、つい反応してしまったせいでして。
件の掲示板での論争では、東中野修道氏の方が「南京大虐殺を無かったことにする」トンデモ修正主義の代表、みたいな扱いだったもので。
私は実は、それ以前は「南京大虐殺は大げざに騒がれすぎてるっていうのが定説になってるのかな」となんとなく思っていたのですが、その歴史マニアによる論争を読んでその認識を改めたんです。
またそうした、肯定派(という言い方が不適切ならば、反修正主義派)の人達の主張に、イデオロギー的なメンタリティは感じませんでしたし。むしろ資料を追求するのが好きな市井の歴史家風というか。

ただ、虐殺人数はおっしゃるように諸説あるようで、また30万人説というのがあやふやな話だというのも同意見です。
というか定義の仕方によるといいますか。
30万人説というのは、南京で殺された人数ではなく
「日本軍が,参謀本部の命令を無視して南京まで攻めのぼった過程全体で死亡した将兵を含めての数字」
だそうですね。
http://www5.tok2.com/home/JOHNVOID/nakkin_faq_ans1.html

2005年05月12日 mowvy URL 編集

 台湾の教科書でも大部分、30万人と記載されてきた
 事実がある様です。

  http://jun-gw.sfc.keio.ac.jp/JP/thesis/WangXueping/syuron.pdf
   教科書から見る対日認識 -- 中国と台湾の教科書の比較 --

   例:p46の部分

   【中華民国】
    国民中学歴史科教科書 第2冊、1999年版、2000年版

    十二月中旬、国軍が南京から撤退し、日本軍は
    南京に入ってから、彼らの野蛮さを発揮し、日本
    軍に殺害された中国人は三十万以上に達した。
    南京大虐殺、日本軍「七三一」部隊は東北地方
    で中国人を細菌戦争の試験に試用した。また韓
    国、台湾などの女性を「慰安婦」にした。日本軍
    の中国侵略の重大な罪を十分に表した。P137

2005年08月13日 るい URL 編集

南京事件、南京大虐殺についてはグーグルで「栗原利一」で検索することをお勧めします。
以下の私の父(栗原利一)の証言などのサイトに飛びます。

http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/butaibetu/yamada/kurihara.html

5月末までに父が毎日新聞や本多勝一氏に話したときに参照したB4判手書き150ページの戦闘記録をマイクロフィルム化やCD-R化する予定でいます。
これにより肯定派には証拠がないという話は決着がつくものと考えています。

2006年04月29日 核心 URL 編集

この人たちが

http://t-t-japan.com/bbs2/data/sikousakugo/file/%83X%83P%83b%83%60%92%A0%8E%CA%90%5E.jpg

このように殺されたのです。

一斉射撃の命令が出たのはそれからまもないときだった。
 半円形にかこんだ重機関銃・軽機関銃・小銃の列が、川岸の捕虜の大集団に対して一挙に集中銃火をあびせる。一斉射撃の轟音と、集団からわきおこる断末魔の叫びとで、長江の川岸は叫喚地獄・阿鼻地獄であった。田中(栗原)さん自身は小銃を撃ちつづけたが、いまなお忘れえない光景は、逃げ場を失った大群衆が最後のあがきを天に求めたためにできた巨大な〝人柱〟である。なぜあんな人柱ができたのか正確な理由はわからないが、おそらく水平撃ちの銃弾が三方から乱射されるのを、地下にはむろんかくれることができず、次々と倒れる人体を足場に、うしろ手にしばられていながらも必死で駆け上り、少しでも弾のこない高い所へと避けようとしたのではないか、と田中(栗原)さんは想像する。そんな〝人柱″が、ドドーツと立っては以朋れるのを三回くらいくりかえしたという。一斉射撃は一時間ほどつづいた。少なくとも立っている者は一人もいなくなった。


2006年08月06日 核心 URL 編集

いやあ、例の如く親父の蔵書を調べていたらビックリするような記述に出くわしました。

いつもの掲示板の「板倉由明氏の捏造記事」のところです。

捏造作家と言うのはこのような捏造をされるのですね!
否定派の畠中秀夫氏のほうがまだ人間としてまともです。
板倉由明氏には「大嘘つき野郎」の称号を謹んで与えたいと思います。
いまごろは閻魔大王に舌を抜かれて血の池地獄でわめいていることでしょう!

http://t-t-japan.com/bbs2/c-board.cgi?id=sikousakugo

2006年10月18日 核心 URL 編集

父(栗原利一)のHPをアップしましたのでお知らせいたします。

2006年10月25日 核心 URL 編集

捏造派が防衛省や旧将校と結びついている証拠をいつもの掲示板「思考錯誤」に提示してあります。ただ、父(栗原利一)は大虐殺ではなく大量処分だと言ってます。

2007年01月30日 核心 URL 編集

防衛省は昭和59年8月8日に森松俊夫氏と原剛氏が父(栗原利一)から採取した証言と証拠を提示して、大虐殺のあったことを認め、自衛隊員に嘘を教え続けるのは止めなさい。

2007年01月31日 核心 URL 編集

父(栗原利一)は昭和59年8月に毎日新聞と朝日ジャーナルに幕府山の捕虜虐殺に関する証言行い、その記事が掲載されたのですが、その後、阿羅健一氏、原剛氏、田中正明氏、板倉由明氏、大井満氏、鈴木明氏、平林貞治氏などの捏造派の面々に正反対の証言を捏造されていろいろなところに掲載されました。昭和61年12月に父が両紙に掲載された証言と同じ内容の証言を南京大虐殺研究札記(1986年12月13日発行)に行なっています。父の話が、よりリアルに分かると思いますので紹介させて頂きます。いつもの「思考錯誤」の掲示板です。

2007年02月06日 核心 URL 編集

「南京大虐殺講演会」 
今は親の介護で時間が無いのですが、一段落したら南京大虐殺とその矮小化についての講演会を開こうかなと考えています。要するに、親父の証言を得たあと肯定派は自分たちの味方だと勘違いし、捏造派はその証言を捏造によって否定しようとしたというだけの話なんですが。日本と中国の間に生じた南京大虐殺に対する認識の差を縮めたいだけなのですが。

2007年02月08日 核心 URL 編集

「南京大虐殺が無かった」と言うのは日本人が日本人に対してついている嘘!

2007年02月23日 核心 URL 編集

「幕府山の捕虜虐殺」がどのように捏造されてきたかと言うと以下のような流れです(主なところ)。

1.昭和36年から37年にかけて福島民友新聞社が「郷土部隊戦記」と言う本の元となる記事を連載しました。本そのものは昭和40年に刊行されるのですが序言を書いているのが防衛庁長官、福田篤泰氏、福島県知事、佐藤善一郎氏、元陸軍中将、両角業作氏(元通産事務次官、良彦氏のご尊父)。この本の中で長々と旧日本陸軍の幹部(両角業作氏、山田栴二氏、畑俊六氏など)が如何に人道的な人間であったか、と書き世に言われるような虐殺は一切なかった、という話を捏造しました。

2.昭和48年に鈴木明氏が「南京大虐殺の”まぼろし”」と言う本を書き、文藝春秋社が大宅壮一ノンフィクション賞を与えました。この本で鈴木氏は「郷土部隊戦記」の記事を引用したり、元将校で後の戦友会会長になる平林貞治氏の証言を追加して捏造記事を書きました。

3.昭和59年になり毎日新聞、福永平和氏と朝日ジャーナル、本多勝一氏が父(栗原利一)の証言を採取し手書きのスケッチ入りで掲載されました。この時に防衛研修所戦史室の森松俊夫氏と原剛氏もほぼ同時に証言や証拠を採取しています。

森松俊夫氏と原剛氏の書簡

http://t-t-japan.com/bbs2/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=3953;id=sikousakugo#3962
http://t-t-japan.com/bbs2/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=3953;id=sikousakugo#3963
http://t-t-japan.com/bbs2/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=3953;id=sikousakugo#3964
http://t-t-japan.com/bbs2/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=3953;id=sikousakugo#3965
http://t-t-japan.com/bbs2/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=3953;id=sikousakugo#3967

4.それ以降、捏造派(戦史室も含めて)は父の話だけは否定しなければならないので家に来たり、手紙のやりとりをしたりしています。父は手帳には全て書き残しているし、手紙は全て残してあるしと言うことでまるで捏造の証拠の山があるような状態になっています。戦史室が捏造派であることの証拠の手紙などもあります。

結論から言うと「南京大虐殺」と言うのは当時の陸軍20万以上が捕虜や市民、約7万人~10万人弱を数日間で虐殺したという空恐ろしい出来事でそれを日本の保守勢力、防衛庁(戦史室も含む)などがやっきになって潰しにかかっている、と言ったところです。馬鹿馬鹿しいのは防衛省のやつらが税金を使って捏造し、その情報をタレ流していることです。こんな連中が国防なんて出来るわけがないでしょう!

2007年03月19日 核心 URL 編集

父の証言を捏造した偕行社も入っている日本「南京」学会の防衛庁関係者は以下の方々です。

顧問:畝本正己(元防衛大学教授)
編集委員:中垣秀夫(元防衛大学教授)
編集委員:杉乃尾宜生(元防衛大学教授)
編集委員:原剛(元防衛研究所研究官)
会員:森松俊夫(元防衛研究所研究官)

学会会員はつくる会関係及びその類の会の関係者が多いですね。

2007年03月22日 核心 URL 編集

なぜ、南京大虐殺が否定され続けるのか?
その理由が分かりました。

グースさんの掲示板で大神さんという方が、随分馬鹿げた質問で私を困らせました。
武器の山は本当は2階建ての家屋だったかもしれない、と言うのです。

ホロコーストのことを考えていて、その理由がわかりました。
アウシュビッツでは殆どの作業はユダヤ人自身で行なっていました。
ドイツ人は最後に薬品を天井のまどから投げてあるくか、そんな作業だけでした。
それに対して南京大虐殺は幕府山の件でも分かるように、まさに人格者、ヒューマニストだった両角業作氏、山田栴二氏、などなどが直接の責任者だったのです。
これはまさに軍隊の否定です。
それゆえ、これほどまでに気ちがいじみた否定が行なわれているのです。
「郷土部隊戦記1」を読めばよく理解できます。

2007年03月29日 核心 URL 編集

核心 が 無視し続けるBBS

http://8411.teacup.com/minzokuisyou/bbs

核心が無視し続けるBBS

2CH・グースの質問掲示板&ブログ投稿場所
http://8411.teacup.com/minzokuisyou/bbs

この疑問についての返答はまだなの?

(前略)

13500名分の武器・弾薬を焼いたとありますが本当でしょうか?

下士官であられる栗原氏が「命ぜられて」とあることから、また大隊全体が135名
に減衰していたところから、そして「最後尾について」とあることから

・大隊主力は捕虜の護送にあたり
・栗原氏以下一個分隊が13500名の武器・弾薬を焼却

したことになると思います。

そこで私はこのスケッチを見ておかしいなと思ったのですが、

・どうやって焼いたか。ガソリン等を用意していたのか。
 鉄と木の塊である銃は中々燃えるものではないでしょう。マッチを点けたくらいでは。
 (私は職務で環境行政に携わっていますが、そこで絶えず廃掃法等で禁止されている野
  焼きは禁止されている旨を業者、一般人に指導を行っています。ユンボも無い状況で
  一個分隊程度の人数で13500人分武器の野焼きは非現実的だと思います)。

・小銃の弾倉に弾が入った状態で焼却を行うと危険です(焼却による火で暴発する
 から。銃口が人に向いたままで暴発すると言わずもがなでしょう)。故に武器から
 弾が抜けているかを確認することと思いますが、13500人分の武器から弾などの
 暴発、誘爆するものが無いかを確認するのは栗原氏らの一個分隊の能力では不可能
 だと思います(日が暮れるどころではないでしょう)。

・手榴弾、爆薬、弾薬は焼却処分は出来ません。栗原氏のスケッチではキャンプファイヤー
 のように書かれていましたが、手榴弾、弾薬、砲弾、弾薬を火にくべていたら大惨事に
 なって栗原氏ら作業に当たっていた兵は大変な目に会っていたでしょう(焼却炉にガス
 ボンベを火にくべるとどうなるか。勿論その比ではありません)。

・仮に爆発物をどけて武器類を焼却してもその爆発物は残ります。砲弾は別にして
 弾薬、手榴弾類はそのまま残したら作業は片手落ちです。かといってそれらを別に後送
 するのなら銃だけを焼く必要もありません。

・また根本的なことですが、13500名と言えば一個師から二個師弱の人数です。
 それらの武器は戦利品であり焼却する必要性がわかりません。


そこで栗原利一氏(核心氏へ訂正)にお尋ねしたいのですが、貴方はこのスケッチが本当に現実を記していた
と思いますか?私は上で挙げた理由から非現実的であり、どこかの家か建物を燃やした
時と記憶が混同しているのではないかと思いますが?

核心さんは有償でスケッチをCDにデータ化したものを配布されていますが、核心さん
自身がそのスケッチの「その武器類を燃やしたところ」についての信憑性・現実性についてどう思われるかをお聞かせ頂ければと思います。


宜しくお願いいたします。

掲示板に書いてあった内容を引用したものだよ。

無視しないで答えてくださいよ。

2007年03月29日 南京マン URL 編集

核心が無視し続ける「随分馬鹿げた質問」をしたとされる犬神氏の投稿内容

http://8411.teacup.com/minzokuisyou/bbs?OF=10&BD=15&CH=5

http://8411.teacup.com/minzokuisyou/bbs

引用開始

早速の回答を有り難う御座います。しかしながら残念ながら回答そのものが「スケッチに間違いは無い」を前提にして書かれているためか、明らかにおかしな点があります。

1:補給を絶たれたとありますが、食糧を絶たれたのなら食糧が枯渇するというのは分かりますが、弾薬類に関しては「文字通り最後の一発まで無くなる」と言うのは現実にはありません。
野砲等の重火器を携行していないというのは分かりますが、武装解除後には小銃弾、拳銃弾、手榴弾、軽機関銃弾、(迫撃砲弾)などがあります。

また、石油とありますが、発火点200℃以上の重油は使わないでしょうから、軽油、灯油、軽質ナフサ(ガソリン)のいずれかと思われます。で、それをどのように携行していたのか疑問です。※ジェリカンなどのある現代ではありません。ドラム缶に入ったものは簡単には移せません。携行そのものが困難です。
また携行する理由がありません(灯油ストーブも無く、歩兵大隊に車は無いのでガソリンを必要としない)。

2、立木を並べるとありますが、スケッチを見ると分かるように流れとしては

武装解除(中国兵が各自毎広場などの一箇所に武器を並べる)→焼却

となっています。これに立木を並べて焼却しようとしたら、

立木を並べる→そこに武器を置く(集積された場所から持って来て) ということになるのですが、13500名分の武器を置くということが大変ですし、

そもそも13500名分の武器の重量に立木を並べたものが耐えられるでしょうか?

仮に全部を小銃(4キロと仮定)とした場合、13500×4キロ=55トン となります。軽機関銃、重機関銃、拳銃、とそれぞれ小銃よりも重軽ものがありますが、これに弾帯なども加える or 弾薬も加えるとしたら下手をしたら100トン弱の重さになります。

その場合は並べた立木はその重さに耐えられません。またもっと簡単に分かることですが、小銃を積み重ねた場合、余りの数の多さに並べようとしても崩れます。その場合は立木を並べても意味がありません。

そしてスケッチでは数山に分散したのではなく一山にして燃えています。

また、立木を並べてそこに銃を並べてガソリンで焼却した場合は、高さは余り高くないが横に広く一帯に並べた形態になります。やはりスケッチと食い違います。

また、今回回答を頂きましたが、

①:弾が入っていないか/弾が紛れていないかの点検作業
②:戦果を焼却することの疑問

など(詳しい質問内容は前述していますので再掲は避けますが)については残念ながらお答えいただきませんでした・・。

今回頂いた回答は核心さんが実際に栗原利一氏に尋ねられて得た回答を基にしたものではなく、核心さんの感想を述べられたものだと思いますが、前述のようにやはり栗原利一氏の「武器弾薬焼却」は明らかにおかしなものであると言えます。

よって、栗原利一氏のこの部分のスケッチは「どこかの家を焼いた時のこと」を武装解除後に焼却したものと【記憶違いしていた】ものだと思われますが如何でしょうか?

で、核心 の 返答

引用開始

申し訳ありませんが科学的検証については私の方に事情がありまして
これ以上はお答えできません。
それ以外のことならお答えできます。

爆笑!

これらに対する返答がないのはなぜ?答えてくださいよ。物理的、科学的検証ができないならば核心の述べたものは単なる妄想の域を出ませんよ。
さ、答えなさいな。

2007年03月29日 南京マン URL 編集

無視しているのでは無くて知らない、もしくは分からない、が正しいと思います。
私は栗原利一証言について知っているだけで南京事件については殆ど知りません。
父(栗原利一)はそれなりに知っていますし、父を知っている人なら、父のスケッチは(なんせ警視庁34年勤続)父の表現したかったものそのものを表しているということを信じる、ということです。
金鵄会東京都理事小平市支部長でもあった人ですからデタラメを書く必要性も理由も無いと思います。

2007年03月29日 核心 URL 編集

核心が無視し続けるコメント

>栗原利一証言について知っているだけで南京事件については殆ど知りません

ということは「「南京大虐殺」と言うのは当時の陸軍20万以上が捕虜や市民、約7万人~10万人弱を数日間で虐殺したという空恐ろしい出来事」というのはまったく調べもせずに何の根拠もないでたらめな主張をしたということなのでしょうか?

Prado氏のコメント

核心 氏、貴方は本当に栗原利一氏のお子さんなんですか?

謙光社刊「南京事件の総括」田中正明著から引用
『栗原氏は自分の意志とは全く逆な報道をされたことに対して、「毎日」に抗議を申し入れた。すなわち栗原氏は、中国側の公式資料集『証言・南京大虐殺』の30万・40万の虐殺に腹を立て、これに反論するため記者に話したのだが、都合のよい部分だけをつまみ食いされ、あのような記事になり、匿名の中傷や悪罵をあびて困っていると抗議したのである。』

とありますが?

http://www.history.gr.jp/~nanking/reason06.html

2007年03月30日 南京マン URL 編集

>貴方は本当に栗原利一氏のお子さんなんですか?

掲示板に田中正明氏、板倉由明氏、森松俊夫氏、原剛氏、阿羅健一氏、大井満氏などの書簡や草稿のコピーをサイトに掲載してあります。「栗原利一」で検索していただけば父のサイトも表示されます。

2007年03月30日 核心 URL 編集

私がこれらの方々の「私信」などを公開しているのは、これらの方々に父の証言が歪曲もしくは捏造されたことを証拠立てるためです。

2007年03月30日 核心 URL 編集

>約7万人

父のスケッチ帳の27と28を参照してください。そこに7万人という数字が書き込まれています。

2007年03月30日 核心 URL 編集

>栗原利一の話なんて、栗原利一を知っている人しか信じられない話

じゃ、一次証拠にも何にもなりませんね。本人の証言ではなくそれを裏付ける証拠がなければいけない。ほかの生き残りとの証言は一致しているのか?なぜ、そこまでの悲惨な状態になっているにもかかわらず、報告書が残っていないのか?すくなくとも、栗原利一氏の証言だけが決定的なものではないし、大神氏やカリスト氏の科学的根拠についてまず、十分な反論をしていただきたい。

できないのならば核心は自ら主張した栗原利一氏のスケッチや資料に関する信憑性を疑い深いものとして定着させたというだけで終わってしまう。ほら、さっさと答える。

2007年04月02日 南京マン URL 編集

>栗原利一氏の証言だけが決定的なもの

その通りです。

2007年04月03日 核心 URL 編集

平林貞治氏の戦友会における活動について手元にある資料でお伝えしておきます。

昭和60年4月28日 連隊合同慰霊祭(祭典副委員長)
昭和61年9月13日 第12回歩65戦没者慰霊祭(祭典委員長、歩65残桜会会長)
平成2年8月31日  第14回歩65慰霊祭(祭典委員長、歩65残桜会会長)

父は昭和61年9月13日に名刺を頂いてます。名刺に日付が記載されています。
戦友会の会長になるような人が虐殺を認めるなんてことを考えること自体が馬鹿げていると思うのですが。

2007年04月03日 核心 URL 編集

栗原利一証言がなぜ決定的なのか?

1.栗原利一は南京戦に伍長として参加している。
2.昭和13秋に負傷し約2年間入院生活をし、その際に記録をまとめている。
3.それを基に昭和36年の入院生活で清書した資料である。
4.昭和59年8月にその資料を参照して証言している。複数回の任意の証言と回想録を多々残している。
5.決定的でないなどと言うなら昭和59年8月8日に防衛研修所戦史室の森松俊夫氏と原剛氏の採取した証言と証拠を提示すればいいでしょうに。それが朝日や毎日に対するものと違うというのなら両社は捏造した、といえるだけです。

2007年04月04日 核心 URL 編集

父(栗原利一)の平成11年の自筆のメモです。

”幕府山砲台占領後第二、三大隊は揚子江左岸に渡り前進したのである。南京市街西方に在る廠舎(軍隊の演習の時使用する)に捕虜兵を収容したのがここまで第一大隊兵全体で百五十人足らずであった。捕虜兵の数は一万三千五百人と言った。大変な数である。捕虜兵は毛布一枚持つのみ。先ずこの兵隊に食べさせなければならない。捕虜に聞くと鳥龍山砲台倉庫に米があることを聞き、馬で輜重隊が運んで来た。戦地の野戦釜で粥を炊いて明くる十三日昼に支那茶碗で一杯づつ与えることができた。わが軍隊にも食べ物がない。こうしたおびただしい人数の命を守るには用意ならない苦心をした。反面、参謀司令部にどう措置すべきか伺いたてながら作戦を練った。捕虜も大便は出さないが小便は出る。廠舎の回りの溝に毛布が落ちて留めた形になってそのところに小便がたまっている。捕虜兵はその小便に顔をつけて飲む者も居る。二日余で粥一杯。十四日夕一同揚子江の中央にある島に移すべく全員後ろ手のまま着剣した兵に守られ右岸の凹地に収容した。君達は向こうにある島に船で送られることを話し聞かせて。我が軍も捕虜とは言え、この兵に戦友たちが殺されたのだと言う憎しみを持っている、敵愾心がいっぱいである。先に到着した者と列の最後とでは三時間の持ち適(?)しさがあった。夕方薄暗さの中、先着した一角で捕虜が反抗して我が将校の軍刀を抜いて殺される事件が起きた(将校一、兵六)。こうなった場合の反抗に備えた機関銃が一斉に火を吹いた。闇の中捕虜が弾に当たらないようにしようと人の上、その人の上に登り高くなる。それが人柱が割れてくずれる。射殺中二度三度そんな光景が見られた。三方から間断なく撃ちまくって殺してしまったのである。次に第二段の措置としてそれに石油を撒いて火をつけた。服は綿服である。僕達も昨夕から食事なしで夜中三時までかかって処置した。次に引き続き柳の枝でかぎを作り揚子江に死体を全部流して証拠を無くしたのである。廠舎に着いて巻脚絆も軍靴も黒く油を塗った形だった。脚絆を取って××(?)したのであった。この時は独立機関銃隊が協力され活躍したのであった。”

2007年04月13日 核心 URL 編集

核心が蒸し続けるコメント

◎最大人員での大隊定員:1,223名(
※田山大隊は135名)
・重機関銃(上条件の欠員無し大隊に最大8丁):弾頭のみ重量13グラム、装弾数30、連射450発/分、毎時27,000発
・軽機関銃(同・最大27丁。当時は1大隊に10~12丁のケースが多かった):
 弾頭のみ重量9グラム、装弾数30、連射500発/分、毎時30,000発
・小銃(歩兵の標準装備・最大423丁):
 弾頭のみ重量9グラム、装弾数5、連射5~60発/分(単発銃)、毎時300~360発

 ただし、再装填や放熱待機などのため、1時間撃ち放しという事はありえないのでだいたい半分程度と考えます。

重機関銃:13×13500×8(最大配備数)=1,404キログラム
軽機関銃:9×15000×12(当時の最頻数)=1,620キログラム
小銃:9×360×100(100人が射撃参加と仮定)=324キログラム
合計:3,348キログラム
→(再装填・放熱冷却で半減と仮定)→1,674キログラム

 田山大隊135名のみで行なわれたという核心氏の主張に従えば、利一氏を含む大隊全員が一人あたり約12キログラムの弾頭を(箱や装弾プレートを計算に入れればもっと多くなる)保持して虐殺に臨んだという事になるようです。
 まあ、135名で不可能なのは数字上明らかですから……これを可能にするためには、例えば連隊砲中隊からの補給や人員・武装そのものの追加が不可欠だったでしょう。
 それとも、利一氏をはじめ大隊の全兵士が10キロ超の弾薬を背負って捕虜を連行していたのでしょうか? それならば不可能ではないかもしれませんが。
 (ちなみに、当時の兵士一人あたりの1会戦(数ヶ月)での小銃弾薬配備量は300発程。小銃で1時間も連続射撃を続ければ、1回でそれを使い切ってしまう)

 当時の兵器運用上はまあ、こんなところのようです。
 「135人だけで虐殺した」「1時間も撃ち続けた」このどちらかは確実に間違い・記憶違いである……というのはわかるのではないかと。客観的な話のみの範囲で。

参考資料:
「九二式重機関銃」性能表
「十一年式軽機関銃」性能表
「三八式歩兵銃」性能表

2007年04月30日 南京マン URL 編集

父(栗原利一)の平成11年の自筆のメモです。読みやすくしました。

”幕府山砲台占領後第二、三大隊は揚子江左岸に渡り前進したのである。
南京市街西方に在る廠舎(軍隊の演習の時使用する)に捕虜兵を収容したのがここまで第一大隊兵全体で百五十人足らずであった。
捕虜兵の数は一万三千五百人と言った。
大変な数である。
捕虜兵は毛布一枚持つのみ。
先ずこの兵隊に食べさせなければならない。
捕虜に聞くと鳥龍山砲台倉庫に米があることを聞き、馬で輜重隊が運んで来た。
戦地の野戦釜で粥を炊いて明くる十三日昼に支那茶碗で一杯づつ与えることができた。
わが軍隊にも食べ物がない。
こうしたおびただしい人数の命を守るには用意ならない苦心をした。
反面、参謀司令部にどう措置すべきか伺いたてながら作戦を練った。
捕虜も大便は出さないが小便は出る。
廠舎の回りの溝に毛布が落ちて留めた形になってそのところに小便がたまっている。
捕虜兵はその小便に顔をつけて飲む者も居る。
二日余で粥一杯。
十四日夕一同揚子江の中央にある島に移すべく全員後ろ手のまま着剣した兵に守られ右岸の凹地に収容した。
君達は向こうにある島に船で送られることを話し聞かせて。
我が軍も捕虜とは言え、この兵に戦友たちが殺されたのだと言う憎しみを持っている、敵愾心がいっぱいである。
先に到着した者と列の最後とでは三時間の持ち適(?)しさがあった。
夕方薄暗さの中、先着した一角で捕虜が反抗して我が将校の軍刀を抜いて殺される事件が起きた(将校一、兵六)。
こうなった場合の反抗に備えた機関銃が一斉に火を吹いた。
闇の中捕虜が弾に当たらないようにしようと人の上、その人の上に登り高くなる。
それが人柱が割れてくずれる。
射殺中二度三度そんな光景が見られた。
三方から間断なく撃ちまくって殺してしまったのである。
次に第二段の措置としてそれに石油を撒いて火をつけた。
服は綿服である。
僕達も昨夕から食事なしで夜中三時までかかって処置した。
次に引き続き柳の枝でかぎを作り揚子江に死体を全部流して証拠を無くしたのである。
廠舎に着いて巻脚絆も軍靴も黒く油を塗った形だった。
脚絆を取って××(?)したのであった。
この時は独立機関銃隊が協力され活躍したのであった。”

2007年05月04日 核心 URL 編集

その当時の日本を実に的確に分析していたトロッキーの「破局に向う日本」を紹介させて頂きます。

http://www2u.biglobe.ne.jp/~Trotsky/35/jp-hakyoku.html

2007年05月04日 核心 URL 編集

>一斉射撃の瞬間に幕府山の現場に居たのは護送した第一大隊の歩兵中隊と機関銃隊です。

第一大隊の4歩兵中隊と両角業作氏の言及されている2大隊分の機関銃隊です、がより正確です。

まず、父が田山大隊と言っているのは田山大隊の歩兵中隊と考えるのが妥当だと思います。
父の回想録や部隊編成表や「郷土部隊戦記1」を読めば分かりますが、歩兵中隊、輜重隊、機関銃隊、連隊砲隊は通常、戦闘では別行動をとります。
父にとっては護送するのは歩兵に決まっていることなので田山大隊といえば、そこには機関銃隊や連隊砲隊は含まれないのです。
ですから本来なら760名であった歩兵中隊が4中隊で「135名であった」とか「150名くらいであった」とかの表現になるわけです。
(戦友会では中隊会が中心的な会です。これは常識です。多数資料があります。)
この部分は人数は多少ぶれてますが父の記憶は正確だと思います。
頂いた手紙などからも歩兵が一番大変な役割を負わされていたことが分かります。

つぎに機関銃隊ですが父は機関銃中隊とか独立機関銃隊とかの言葉で言及しています。
上述したように機関銃隊は第一大隊(広義の田山大隊)には含まれますが、指揮系統が全く違うため父がその行動を把握していることは無かったと思います。
「郷土部隊戦記1」には両角業作氏が「護衛のために」2大隊分の機関銃隊を手配した、となっています。
私も父との会話などから、最終的に「郷土部隊戦記1」を読んで両角業作氏が手配したということが分かったのです。

2007年05月04日 核心 URL 編集

南京の歴史捏造の張本人たち

南京大虐殺を否定したり、矮小化している張本人たちが判りました。
防衛省防衛研究所戦史部です。
前身は防衛庁防衛研究所戦史室と言ったのですが、彼らが編纂した戦史が「戦史叢書」です。
戦前の旧陸軍将校たちの集まりである偕行社が編纂したのが「南京戦史」です。
両書とも南京の歴史捏造本です。
戦史室では自衛隊が出来たときに旧将校たちが巣食って歴史を捏造しまくったようです。
彼らはまた、日本南京学会、南京の真実を検証する会、しいては新しい歴史教科書を作る会や英霊に応える会につながっています。
国費を使って歴史の捏造です。
頭の中が「天皇主権国家」から「国民主権国家」に切り替えられないでいるようです。

2007年10月26日 核心 URL 編集

なぜ栗原利一の息子の話で南京大虐殺があったことが証明されてしまうのか?

1.栗原利一は魚雷営の1日目の中国人の2千人の斬首について、息子に話していた。

2.大湾子の捕虜殺害は1万3千5百人である(スケッチブックより)。

3.65連隊は全体で2万人の捕虜を殺害した(小野賢二氏の聞き取りより)。
  (当時の新聞なども同じ数字を捕獲捕虜として挙げている。)

4.魚雷営の捕虜殺害は65連隊である(小野賢二氏の聞き取りなどにより)。
  (魚雷営の2日目、3日目は5千人が殺害されている。)

結果として65連隊の2万人の捕獲捕虜の殺害について全て明白になる。

栗原利一は全体で7万余人と記述している(スケッチブックより)。
これは当時公表された捕獲捕虜や遺棄死体数とほぼ一致する。

つまり、日本陸軍は南京陥落時に全体として7万余人の捕虜を確信的に殺害したのである。

(中国側の言う30万人は死体の数なので矛盾しない。)

2008年11月10日 核心 URL 編集












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