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駆け出しのころ④

 いまの新人記者は赴任先がかなり早く前に分かるので、事前に自分で出かけて住む場所を決めているケースが多いかもしれない。私の場合は4月1日に入社して、2週間東京で研修があり、配属される支局が決まったのは最後の日だったと思う。鹿児島支局に赴任しても、住む場所など当然決まっていない。「しばらく、宿直室にいればいい」というのだ。
 結局、宿直室には1カ月半ぐらいいただろう。6畳一間、そこには前述のように事務補助員のN君が住んでいる。正規の宿直の人が毎日いる。宿直は、午前2時ごろまで事件や事故の警戒をして、その後、宿直室で仮眠する。そこに、いわば居候していたわけだから、要するに毎日が宿直である。
 今は新人記者だろうとちゃんと週休2日を取っているはずだ。当時は、週休2日でもなかったし、新人記者には休みはなかった。赴任してかなりたったころ、支局長が「明日は君、休んでもいいよ。部屋を探せ」という。それで、やっと休日が来て、自分の住む家を探すことになった。警察署の近くで、電話連絡ができるところ、が条件だった。ちなみに当時は携帯電話など存在しない。新人記者が家に電話を引くといったことも夢想だにしない時代だ(ふつうの家でも電話を引くのはなかなか大変だった)。
 鹿児島市内には当時、警察署が二つあった。鹿児島中央署と鹿児島南署である。南署の方は鹿児島市と合併した旧・谷山市にあって、かなり遠い。私が必須条件とされた「警察署の近く」の警察署は鹿児島中央署のことだ。鹿児島市新屋敷町にあった。
 ようやく休みをもらったある日、仕方がないから、新屋敷町の不動産屋にいった。警察署から目と鼻の先の木造モルタル2階建てのアパートの一部屋を借りることにした。6畳一間に3分の1畳ほどの流し場がついていた。トイレは共用。風呂もシャワーも当然ない。
 狭い階段を上っていくと、共同のトイレがあって、2階に5部屋ぐらいあったのだろうか、奥の左側の部屋が私の住処だった。家賃は月9千円。ちなみに給料は記者の外勤手当などを含めて手取り4万数千円ほどだっただろうか。鹿児島だったら東京と違って相当いいところに住める気がしていたのだが、家賃は全般にそんなに安くなかった。
 窓から顔を少しのぞかせば、桜島が見えた。このことを除くと、まことに劣悪な部屋だったというべきだろう。道路側と隣の建物の側に窓があったが、日当たりはほとんどなかった。結局、ここに2年間住んでいたのだが、東京から少し持ってきた本にはカビが生えていた。布団はたぶん1度か2度ぐらいしかたたんだことはなかったように思う。びっしり汗を吸って、重くなった布団は引っ越すときに捨てた。布団の下には桜島の灰が相当量、入り込んでいた。「よくまあ、こんなところに寝ていたもんだ」と思ったことだった。
 もっとも、独り身の新人記者にとって、住む場所は要するに寝るだけの場所だったから、環境は大して問題ではなかったのである。
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2004年12月12日 デモシカ記 トラックバック:0 コメント:0












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