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「太鼓たたいて笛吹いて」


井上ひさし「太鼓たたいて笛吹いて」を先日、紀伊国屋サザンシアターで観てきました。林芙美子の戦争協力とそれと対照的な戦後の作家生活を描いた作品です。林芙美子を大竹しのぶが演じています。 

(↑これは以前の公演のポスター)

林芙美子というと、すぐ「放浪記」ということになります(ついでにいうと、森光子が長年続けている菊田一夫作の舞台劇を思い出す人も多いでしょう)。井上ひさしは、こうしたイメージとはまったく違う林芙美子像を作り出しています。林は戦争中、新聞社の従軍特派員や陸軍報道班員として中国やインドネシアの前線に行き、大日本帝国の勇壮な戦士たちの「物語」を書きました。しかし、戦後は、自身の身体に鞭打つようにして戦争未亡人や復員兵ら、戦争に翻弄されたふつうの人々を描く作品を次々に発表しました。

井上ひさしは、戦後の林芙美子に「太鼓たたいて笛吹いて」、人々を戦争に駆り立てた自分自身への反省と贖罪意識を読み取って、この作品を書いています。戦後の林芙美子の作品をほとんど読んでいないので、この井上ひさしの解釈については何もいえないのですが、井上ひさしは、こうした林芙美子像を通じて「ペンの責任」を問いかけているのでしょう。

大竹しのぶはやはり実に達者な役者でした。前半少し眠くなりましたが、後半は舞台の展開に引き込まれていました。島崎こま子(島崎藤村『新生』に出てくる、あの姪である)の配し方など、井上ひさしの作劇術はさすがにうまいと思います。だが、林芙美子のセリフが啓蒙家・井上ひさしのお説教に聞こえてしまって、いささかうんざりしたのも確かです。

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2008年12月23日 感想/その他 トラックバック:0 コメント:1

『政治と複数性――民主的な公共性にむけて』

「神保町の匠」に齋藤純一『政治と複数性――民主的な公共性にむけて』(岩波書店)の書評を書きました。

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柴又の寅さんはいくつもの名セリフを残した。「それじゃあ、お前がイモ食って、おれがプッと屁をこくか」というのがあった。「私の気持ちはあなたにも分かるはず」といって同意を求めてくる人に、寅さんはスパッと、こんなふうに切り返す。

人間は一人一人、ついには「私」は「私」なのである。ハンナ・アーレントをはじめ多くの思想家の著作を参照して書かれた重厚な本書にはミスマッチだろうが、タイトルにある「複数性」から、私はこの寅さんのセリフを思い出した。

相互に「他者」として立ち現れざるをえない「私」たちは、どうしたら「他者」性をそこなうことなく、有効な社会的連帯を作り出していくことができるのか。著者はアーレントに深く学びつつ、現代における民主的公共性について独自の論究を深めている。

アーレントにとって、公共性の領域は人々が政治的存在者として現れる「現れの空間」である。人々はそこで自ら言葉を発し、自ら行為する。「他者」が、それに対して何らかの応答をする。著者はこの「現れの空間」としての公共性に深く共感しながらも、アーレントが描かなかった「もう一つの公共性」を提示する。

著者は、それを「生活を保障する公共性」と呼ぶ。人はだれもが「生物学的生命」として存在する。「生活を保障する公共性」は、こうした人間存在にかかわる。今日、この公共性なしには「現れの空間」としての公共性もありえない。アーレントは「複数性」を公共性の前提にした。この点はむろん、著者も同じ立場にいる。だが、公共性そのものが、こうした複数の位相を持っているのだ。

公共性に深くかかわって、著者は「親密圏」の捉えなおしも行っている。「親密圏」といえば、すぐに「家族」が思い浮かぶが、著者は「具体的な他者の生への配慮/関心を媒介とするある程度持続する関係性」と把握する。「生活を保障する公共性」は国家の占有物ではない。「親密圏」は、ある人々にとってはかけがえのない「現れの空間」でもありうる。

門外漢の私としては、もう少しやさしい言葉で書いてほしいと思いながら、時代へのアクチュアルな関心を背後に自らの思想を紡ぎだそうとする著者の果敢な取り組みに共感した。


2008年12月15日 感想/その他 トラックバック:0 コメント:0

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