久しぶりに「朝日」批判
いろんなことがあって、このブログも休眠状態でしたが、久しぶりに書いてみました。定番(?)の朝日新聞批判で恐縮ですが……。
2月15日の「朝日」の第2社説は「共産と社民」というタイトルで「昔の夢よ再びですか」という見出しがついたものだった。まず、書き出しの部分。
共産党と社民党が、憲法改定の阻止に向けて共闘を目指すことになった。……/「社共共闘」と言えば、どこか懐かしい響きを感じる人も多いのではないか。
以下、60年代後半の「革新首長」輩出以降の旧社会党と共産党の関係から説き起こし、今回の「共闘」に至る経過を述べる。
ここへきて歩み寄りの動きが出てきた背景には、両党の、とくに一線党員たちのせっぱ詰まった危機感がある。自民、民主の2大政党がともに憲法9条の改定に前向きななかで、これだけ小さな政党がいがみ合ったままでは抵抗しようもないのではないか。そんな思いだろう。
社民党大会が、現在の自衛隊を「明らかに意見状態」とする宣言を満場一致で採択したことについては、次のように書いている。
かつて自衛隊違憲論だった時代の社会党に逆戻りしたかのような転換だ。
そして、締めは、こうだ。
小さな石だが、市民団体や労働組合など政党を超えた連携を広げられれば、波を呼ぶこともあるかもしれない。
例によって、ああでもない、こうでもないの書きっぷりだが、率直にいって「まじめさ」に欠ける内容である。それは、端的に見出しに表れている。「昔の夢よ再びですか」というのは、揶揄以外の何ものでもない。見出しでいきなり揶揄しておいて、《波を呼ぶこともあるかもしれない》ってのは、なんだろうか。「朝日」の高踏的で、エラそうぶりが出ていると言えば、それまでだが、こうした「まじめさ」の欠如はジャーナリズムのあり方として大いに問題である。
ちなみに「社共共闘」ではないが、社民党の「自衛隊違憲論」復活を論じた「毎日」2月14日の社説の見出しは《「抵抗政党」も一つの選択だ》だった。ここには、すくなくとも問題を真摯に論じる姿勢がある。「朝日」は何かが崩れている。
2月15日の「朝日」の第2社説は「共産と社民」というタイトルで「昔の夢よ再びですか」という見出しがついたものだった。まず、書き出しの部分。
共産党と社民党が、憲法改定の阻止に向けて共闘を目指すことになった。……/「社共共闘」と言えば、どこか懐かしい響きを感じる人も多いのではないか。
以下、60年代後半の「革新首長」輩出以降の旧社会党と共産党の関係から説き起こし、今回の「共闘」に至る経過を述べる。
ここへきて歩み寄りの動きが出てきた背景には、両党の、とくに一線党員たちのせっぱ詰まった危機感がある。自民、民主の2大政党がともに憲法9条の改定に前向きななかで、これだけ小さな政党がいがみ合ったままでは抵抗しようもないのではないか。そんな思いだろう。
社民党大会が、現在の自衛隊を「明らかに意見状態」とする宣言を満場一致で採択したことについては、次のように書いている。
かつて自衛隊違憲論だった時代の社会党に逆戻りしたかのような転換だ。
そして、締めは、こうだ。
小さな石だが、市民団体や労働組合など政党を超えた連携を広げられれば、波を呼ぶこともあるかもしれない。
例によって、ああでもない、こうでもないの書きっぷりだが、率直にいって「まじめさ」に欠ける内容である。それは、端的に見出しに表れている。「昔の夢よ再びですか」というのは、揶揄以外の何ものでもない。見出しでいきなり揶揄しておいて、《波を呼ぶこともあるかもしれない》ってのは、なんだろうか。「朝日」の高踏的で、エラそうぶりが出ていると言えば、それまでだが、こうした「まじめさ」の欠如はジャーナリズムのあり方として大いに問題である。
ちなみに「社共共闘」ではないが、社民党の「自衛隊違憲論」復活を論じた「毎日」2月14日の社説の見出しは《「抵抗政党」も一つの選択だ》だった。ここには、すくなくとも問題を真摯に論じる姿勢がある。「朝日」は何かが崩れている。
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