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駆け出しのころ⑥

 仕事を覚えるのはそれほど大変ではなかったのだが、支局の勤務環境は相当にひどかった。これにはまいった。理由ははっきりしていた。支局長が、何というか、「圧政」をひいていたのである。支局員は前に書いたように私を含めて4人。そのほかに支局長に下に次長がいる。この次長が新聞社でいう「デスク」で、日々の紙面作りを実際に指揮する。
 この次長は支局長と違って、西部本社で採用され、西部本社しか勤務したことがない人だった。その人が支局長にいじめまくられていたのである。まあ、新人記者の目から見ても仕事がバリバリできるという人ではなかったが、それでもひどいいじめようだった。夕方、3階の支局長住宅から降りてきて、それまで本社に送稿した原稿を点検する。それから延々と次長のつるし上げである。原稿の直し方から記事の価値判断に至るまで、ともかくひどい言葉を投げつけて非難する。
 支局長の「いじめ」の対象は次長だけではなかった。新人記者の私もたびたびその標的になった。支局長は東京本社社会部にいたせいか、異常に「特だね」を意識する人だった。地元新聞に出た小さな記事でも「抜かれた」となると、もう大変だ。県警記者クラブに電話がかかってきて「ちょっと支局に上がってこい」である。それから延々と怒られる。
 支局内ではいつ支局長の雷が落ちるかと、いつもピリピリしていた。支局のデスクは本来頼りになる「教師」である。その「教師」が散々の状態だったうえに支局内がこんなふうだったのだから、いま思えば、勤務環境は新人記者にとって最悪といってよかっただろう。
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2004年12月29日 デモシカ記 トラックバック:0 コメント:0

天皇の発言

 天皇誕生日ということで、各紙とも宮内庁記者会の質問に対する天皇の回答を扱っている。皇室は皇太子の雅子妃についての「雅子の人格やキャリアを否定するような動きがあったことも事実」という異例の発言、それを受けた天皇と秋篠宮の、これも異例な発言があって、週刊誌などを大いににぎわせた。今回の天皇の回答も相当に踏み込んだものと言えるだろう。抄録してみよう。
《(皇太子の発言は)私としても初めて聞く内容で大変驚き、「動き」という重い言葉を伴った発言であったため、国民への説明を求めましたが、その説明により、皇太子妃が公務と育児の両立だけではない、様々な問題を抱えていたことが明らかにされました。私も皇后も、相談を受ければいつでも力になりたいと思いつつ、東宮職という独立した一つの職を持っている皇太子夫妻の独立性を重んじてきたことが、これらの様々な問題に、気が付くことのできない要因を作っていたのだとすれば大変残念なことでした》
《皇太子の発言の内容については、その後、何回か皇太子からも話を聞いたのですが、まだ私に十分に理解しきれぬところがあり、こうした段階での細かい言及は控えたいと思います。
 二人の公務についても、五月の発言以来、様々に論じられてきました。秋篠宮の「公務は受け身のもの」という発言と皇太子の「時代に即した新しい公務」とは、必ずしも対極的なものとは思いません。新たな公務も、そこに個人の希望や関心がなくては本当の意義を持ち得ないし、また、同時に、与えられた公務を真摯(しんし)に果たしていく中から、新たに生まれてくる公務もあることを、私どもは結婚後の長い年月の間に、経験してきたからです。
 皇太子が希望する新しい公務がどのようなものであるか、まだわかりませんが、それを始めるに当たっては、皇太子妃の体調も十分に考慮した上で、その継続性や従来の公務との関係もよく勘案していくよう願っています。従来の公務を縮小する場合には、時期的な問題や要請した側への配慮を検討し、無責任でない形で行わなければなりません。「時代に即した公務」が具体的にどのようなものを指すかを示し、少なくともその方向性を指示して、周囲の協力を得ていくことが大切だと思います。二人が今持つ希望を率直に伝えてくれることによって、それが実現に向かい、二人の生活に安定と明るさがもたらされることを願っています》
 この日の天皇の回答について「朝日」は「編集委員・岩井克己」という人の「解説」を掲載している。これも相当に異例だし、かなり驚く内容である。たとえば、次のような部分。
《気になるのは、憶測が広がり、様々な人が傷つきつつあることに対して、皇太子ご夫妻からブレーキをかける強い意志が感じられないことだ。両陛下が心を痛めていることや、自分たちが務めを十分に果たしていないことについても率直にわびる言葉も聞こえてこない。
 陛下の回答は、ご自身が何度も皇太子さまに真意を尋ねたが、納得できる説明がないこと、公務見直しについても、具体的な説明はもちろん方向性すら示されていないことをうかがわせる》
 これは明確に、それも相当に強い調子の「皇太子批判」と言っていい。かなり思い切った記事だと思う。しかし、天皇の回答を読むと、こうした解釈は奇矯ではない。つまり、「朝日」の解説は、天皇の回答から読み取れる「皇太子批判」を代弁しているかたちである。
 むろん天皇家なのだから、そもそもふつうの親子や家族の関係は取り結ぶことはできないだろう。だが、戦後、天皇家は国民にとって、一つの「モデル家族」であり続けてきた。いまその「モデル家族」で、息子の妻をめぐって親と息子、そして兄弟との亀裂があらわになっている。

2004年12月23日 感想/新聞編 トラックバック:0 コメント:0

NHKの不祥事

 さっきまでNHKで自分のところの不祥事に関して「視聴者の意見を聞く」という趣旨の番組をやっていた。不祥事を理由にした受信料不払いが急増していることにNHKとしても危機感を持ったということだろうが、肝心の公共放送の「公共性」に関する根本の議論がなかった気がする。
 鳥越俊太郎氏が「視聴者代表」みたいなかたちで、自分が取材した「海老沢会長辞めろ」コールを紹介していたけれど、何か「いやな感じ」がした。海老沢会長に責任があるのは当然だが、「会長が辞めなければ、受信料を払わない」という論理はおかしいと思う。受信料によって成り立つ公共放送の枠組みを認めるならば、受信料は払うべきだろう。別に海老沢氏を擁護する気はないし、当然にある時期になれば辞任すべきだと思う。だが、そのことと受信料不払いとは次元が違う。そう安くはない受信料を払いたくない気持ちはだれにでもあるだろう。「俗情との結託」という言葉を思い出した。

2004年12月19日 感想/その他 トラックバック:1 コメント:0

駆け出しのころ⑤

 借りたアパートから鹿児島中央署まではほんの2、3分。朝、起きると、まず宿直がいるうちに警察をのぞく。まあ、8時ごろか。夜のうちに何か事件、事故がなかったかを聞くわけだ。このあと、市電で支局に出勤して、県警本部にある記者クラブに行く。支局から県警本部までは歩いて5分ほどだったか。県警本部行くと、刑事部と交通事故係(正式な名前は忘れた)に顔を出す。県内の各警察署から変死体や死亡交通事故の報告があがっているのを見て、必要な場合は所轄の警察署に電話を入れて補足取材して記事にする。 
 パソコンはもとよりワープロもなかったから、記事は「雑用紙」と読んでいた紙に書いた。この紙は、わら半紙を4分の1ぐらいにした大きさの長方形の紙で、長方形の短辺の片方が糊で綴じてある。一枚に5字3行書くように教えられた。当時の新聞は1行が15字だったから、雑用紙1枚が1行というわけだ。先輩記者は、部厚い雑用紙をドンと置いて、パッパッとめくりながら原稿を書いていく。最初は「さすが」と思ったのだが、単純な交通事故の記事など書くのは難しいことではないことはすぐに分かった。

2004年12月19日 デモシカ記 トラックバック:0 コメント:0

「永遠の片想い」と「スキャンダル」

 飯田橋のギンレイホールで観る。何を上映しているかも知らずに出かけたのだが、両方ともけっこう楽しめた。同じ韓国映画とはいえ、まったくテイストの違う映画である。
 「永遠の片想い」は、監督&脚本イ・ハン。「猟奇的な彼女」のチャ・テヒョンにソン・イェジンとイ・ウンジュという2人の女優を配した、まことに、まことに懐かしい感じの純愛映画である。2人の女優はそれぞれに魅力的だし、ていねいに作ってある点に好感が持てた。胸にキュンと来るところもないではない。
 「スキャンダル」は、ご存知「冬ソナ」のヨン様ことペ・ヨンジュンが好色・冷酷な貴族を演じる。といっても、これも実は純愛映画なのである。眼鏡があってもなくても、「ヨン様」には何か間の抜けた感じがつきまとうのだが、それは別にして、余韻のあるいい映画だった。

2004年12月19日 感想/映画編 トラックバック:0 コメント:0

続・映画「血と骨」

 きょうの朝日新聞夕刊文化欄を見たら、今年の映画の回顧が載っていて、何と6人中3人が「血と骨」をベスト3の中に入れている。石飛徳樹(文化部記者?)も《今年最も衝撃を与えた作品は「血と骨」(崔洋一監督)だろう。女と金を力で奪う主人公の生き様は人間のプリミティブな姿を観客に問答無用で突きつけた。セットで再現された戦後の貧しい長屋街は、現代日本人の原風景でもある。その事実が好悪双方で観客の感情を揺さぶった》と書いている。
 ここにベスト3を挙げている評論家諸氏の何十分の1しか映画を見ていないから、その他の作品とは比較できない。でも、やっぱり、理由の分からない主人公の暴力だけが目立った、つまらない映画だと私は思う。「問答無用」は、困るんだな。挨拶のしようがない。それにしても、この石飛記者は何かを言っているつもりなのだろうか。特に、引用部分の後半は文意不明。

2004年12月15日 感想/映画編 トラックバック:0 コメント:1

駆け出しのころ④

 いまの新人記者は赴任先がかなり早く前に分かるので、事前に自分で出かけて住む場所を決めているケースが多いかもしれない。私の場合は4月1日に入社して、2週間東京で研修があり、配属される支局が決まったのは最後の日だったと思う。鹿児島支局に赴任しても、住む場所など当然決まっていない。「しばらく、宿直室にいればいい」というのだ。
 結局、宿直室には1カ月半ぐらいいただろう。6畳一間、そこには前述のように事務補助員のN君が住んでいる。正規の宿直の人が毎日いる。宿直は、午前2時ごろまで事件や事故の警戒をして、その後、宿直室で仮眠する。そこに、いわば居候していたわけだから、要するに毎日が宿直である。
 今は新人記者だろうとちゃんと週休2日を取っているはずだ。当時は、週休2日でもなかったし、新人記者には休みはなかった。赴任してかなりたったころ、支局長が「明日は君、休んでもいいよ。部屋を探せ」という。それで、やっと休日が来て、自分の住む家を探すことになった。警察署の近くで、電話連絡ができるところ、が条件だった。ちなみに当時は携帯電話など存在しない。新人記者が家に電話を引くといったことも夢想だにしない時代だ(ふつうの家でも電話を引くのはなかなか大変だった)。
 鹿児島市内には当時、警察署が二つあった。鹿児島中央署と鹿児島南署である。南署の方は鹿児島市と合併した旧・谷山市にあって、かなり遠い。私が必須条件とされた「警察署の近く」の警察署は鹿児島中央署のことだ。鹿児島市新屋敷町にあった。
 ようやく休みをもらったある日、仕方がないから、新屋敷町の不動産屋にいった。警察署から目と鼻の先の木造モルタル2階建てのアパートの一部屋を借りることにした。6畳一間に3分の1畳ほどの流し場がついていた。トイレは共用。風呂もシャワーも当然ない。
 狭い階段を上っていくと、共同のトイレがあって、2階に5部屋ぐらいあったのだろうか、奥の左側の部屋が私の住処だった。家賃は月9千円。ちなみに給料は記者の外勤手当などを含めて手取り4万数千円ほどだっただろうか。鹿児島だったら東京と違って相当いいところに住める気がしていたのだが、家賃は全般にそんなに安くなかった。
 窓から顔を少しのぞかせば、桜島が見えた。このことを除くと、まことに劣悪な部屋だったというべきだろう。道路側と隣の建物の側に窓があったが、日当たりはほとんどなかった。結局、ここに2年間住んでいたのだが、東京から少し持ってきた本にはカビが生えていた。布団はたぶん1度か2度ぐらいしかたたんだことはなかったように思う。びっしり汗を吸って、重くなった布団は引っ越すときに捨てた。布団の下には桜島の灰が相当量、入り込んでいた。「よくまあ、こんなところに寝ていたもんだ」と思ったことだった。
 もっとも、独り身の新人記者にとって、住む場所は要するに寝るだけの場所だったから、環境は大して問題ではなかったのである。

2004年12月12日 デモシカ記 トラックバック:0 コメント:0

映画「血と骨」

 予告編を見て、見たいと思っていたのだが、きのうたまたま時間が空いたので、見てきた。監督は崔洋一。
 ビートたけしは主人公の金俊平という、まことに異様な人物を見事に演じているというべきだろう。でも、映画を見終わった後、彼の異様さ(暴力、性欲、金銭欲……)が印象に残るだけだった。つまらない映画だった。

2004年12月11日 感想/映画編 トラックバック:0 コメント:0

駆け出しのころ③

 西部本社(北九州市小倉北区)で一日だけの「研修」を終えて、夜、小倉駅から寝台急行「かいもん」(何号かは忘れた)に乗って鹿児島に向かった。西部本社管内の支局には10人以上が配属になっていた。夜、人事部の担当者が歓迎の小宴を開いてくれていたのだが、私だけその席から中座して駅に向かった。一番遠いということもあったのだが、支局長に電話で連絡すると、「明日朝にはちゃんと赴任しろ」と言われてしまった。私は明日中に着けばいいや、ぐらいに思って、その日は小倉に泊まるつもりだったから、びっくりしたが、しようがない。
 早朝、西鹿児島駅に着くと、支局の宿直明けの記者(前述のキャップ格の人だった)と事務補助員のN君が迎えに来てくれていた。事務補助員というのは、支局の雑務をするアルバイトで、「坊や」と呼ばれていた。N君は定時制高校に通っていて、支局の宿直室を下宿がわりにしていた。彼のことはまたふれる機会があるだろう。
 支局は3階建てで、一階が会議室と宿直室。2階が支局の仕事場。3階が支局長住宅であった。支局に着いて、宿直明けの先輩記者とともに近所の食堂から出前してもらった朝ごはんを食べた。目玉焼きだったかを醤油をかけて食べると、何だか味が変だった。醤油が甘いのだ。「日本は広い」。東京生まれ・東京育ちの世間知らずは、その朝、そう痛感したのだった。
  

2004年12月09日 デモシカ記 トラックバック:0 コメント:0

続・めぐみさんは生きているだろうか

 今朝の毎日新聞に重村智計氏の談話が載っていた。前記と同じ趣旨だが、「(めぐみさんが)生きている可能性が極めて高くなった」というように少しトーンを落としている。同じ紙面に韓国・西江大研究教授の申志鎬氏という人が、おおむね次のように言っている。
 「金正日総書記としては本物の遺骨をわたして、この問題に決着をつけたいと考えて、部下にそのように命じた。ところが、本物を出すことが出来ない実務者がニセモノでごまかした」
 これはありそうな気がする。ともあれ、繰り返して言えば、今回の「ニセモノ遺骨」は、めぐみさん生存の可能性に直結するものではないだろう。
 ところで、今朝の各新聞は当然、この問題を社説で取り上げていたが、朝日新聞が一番力(りき)が入っていた。以下は、その冒頭部分。
《金正日総書記に問いたい。
 このやり方はいったい何だ。自国の体制が行った犯罪についてまじめに総括し、始末をつける気があるのか。いつまで拉致被害者の家族や日本国民の心をもてあそべば気がすむのか。
 横田めぐみさんの夫とされる男性が、めぐみさんの遺骨だとして政府代表団に渡した骨は、実はまったく別人のものだった。DNA鑑定の結果によると、複数の人間の骨だという。
 あきれ果て、憤りで言葉もない》
産経新聞ではありません(念のため)。

2004年12月09日 感想/新聞編 トラックバック:0 コメント:0

めぐみさんは生きているだろうか

 《政府は8日、北朝鮮による日本人拉致問題をめぐる先月の日朝実務者協議で、北朝鮮側が「横田めぐみさんのもの」と説明して日本代表団に渡した遺骨のDNAを鑑定した結果、別人のものだったと発表した。政府は同日、北朝鮮に鑑定結果を伝え、厳重に抗議した。小泉首相は与党などで高まっている経済制裁措置について、「対話と圧力だから、両面を考えて交渉を続けないといけない」と述べ、直ちには制裁に踏み切らない考えを示した。だが、今回の鑑定結果は北朝鮮側の説明の信憑(しんぴょう)性を根本から崩すもので、首相がめざす拉致問題の解決と国交正常化の前途はいっそう見通せなくなった》
 以上は、朝日新聞インターネット版からの引用である。
 予想されたこととはいえ、北朝鮮という国はいったい何を考えているのかと改めて思う。いま、テレビ朝日の「報道ステーション」を見ながら、これを書いている。重村智計早稲田大学教授は「骨を焼く温度が低かったのでしょう」と言う。つまり、北朝鮮としてはDNA鑑定はできないとタカをくくっていたらしい。「なめるな」と言った言葉を使うと、ナショナリズム批判の向きからお叱りを受けるかもしれないが、ふつうの日本人のまっとうな感覚は、こういうことではないか。
 ただ、重村氏が「これで、めぐみさんは生きていることがはっきりした」というのは疑問だ。重村氏の論拠は「ほんものの骨一本出せばいいのだから、それが出せないということは生きているとしか考えられない」というものだ。
 だが、私にはもしめぐみさんが生きているとしたら、北朝鮮があえて「死んだ」とする意味がもう一つ分からない。すでに何人かの拉致被害者が帰っている。めぐみさんも生きているなら、帰国させればいいではないか。あるいは、めぐみさんについて帰国させられない事情が何かあるのかもしれないが、どうもあまり思い浮かばない。もちろん私とて生きていることを願いたい。だが、そうした願望とは別に「生死」に限って言えば、私はめぐみさんはすでに亡くなっているように思える。

2004年12月08日 感想/新聞編 トラックバック:0 コメント:0

駆け出しのころ②

 最初の赴任地は鹿児島だった。どこの新聞社も,そして今でもそうだが,新人記者はたいていごく短い研修を終えると,地方の支局に配属される。OJT(on the job training)なんて言葉が使われていない時代から,そうだった。つまり「習うより慣れろ」というわけだ。この仕組み,しかし,なかなか合理的でもある。地方支局はたいてい県庁所在地にある。行政機関(県,市)があって,警察(県警,警察署)がある。日常的紙面つくりは地方版である。中央のミニチュアといっていい場面で,新米記者は取材のノウハウ,記事の書き方を文字通り実践的に学んでいく。
 私が赴任した鹿児島支局は当時,支局長,次長のほか,記者が私を含めて4人しかいなかった。入社10年ぐらいの人が県政を担当していて,いわばキャップ格(東京本社管内の支局はもう少し人数が多く,こうしたポジションの人を「三席」と呼ぶと知ったのはもっとずっと後のこと)。地方通信員から社員になった年配の人が市政ほかを担当していた。もう一人が私の直接の先輩で入社2年目の人だった。
 支局長は東京本社社会部や政治部にいた人で,これがまことに困った人物だった。東京に生まれ育って,東京の大学を卒業して新聞社に入ったら,いきなり鹿児島支局である。しかも,この変てこな支局長と出会って,私の記者生活は前途洋々どころか波高しの船出だった。

2004年12月07日 デモシカ記 トラックバック:0 コメント:0

駆け出しのころ①

 「元デモシカ?記者」は、まあウソではないのである。新聞記者にデモなるか、新聞記者シカなれないか、というわけだ。以下、「デモシカ記」を。今回は「デモシカ」以前というか、もう35年も前の就職事情のいったんを記す。
 大学4年の春、学費はただで大学院に進学でき、しかもドクターになると助手として給与も出て、そのまま大学のスタッフになれるという、まことに恵まれた資格が与えられる試験を受けて合格した。でも、研究者になることに不安もあった。自分の能力に自信がなかった。
 とはいえ、もともとふつうの企業に就職する気はなかった。「就活」といった言葉はなかったが、周りには「会社訪問」といったことをして人もいるらしいので、5月の連休明けに、いまは合併でなくなった外国為替専門の銀行に行ってみた。この銀行なら外国に行けそうだし、調査部といったセクションでエコノミストとして研究的な仕事ができそうに思った。経済学はほとんど知らなかったのだが。
 人事部の担当者に会って、大学の成績などを書かされた。その後、面接試験のようなものがあった。短い英文をわたされ、その場で訳したのを覚えている。数日後、副頭取という人と立派な部屋で面接した。それで、内定。内定請書という書類を出した。
 しかし、何となく新聞記者という仕事もおもしろそうだと思っていた。当時、朝日、毎日、共同通信、NHKが同じ日に試験があった。7月のはじめだったと思う。この一つを受けたら、合格した。銀行の方には「大学院に進む」といって内定を取り消してもらった。
 しかし、新聞社に決めたわけでもなかった。卒業する直前まで大学に残ろうか、新聞記者になろうか、迷っていた。なぜ、前述のような「恵まれたコース」を捨てたのか、いま振り返ってもよく分からないところはある。要するに一人前の研究者になるのは大変そうに思えたし、一方、新聞記者は何だかおもしろそうにみえたのだ。当時、大学紛争が激しく、アカデミズムが色あせて見えた時期であったことも大きい。
 まあ、そういうことで私は新聞記者になったのである。

2004年12月06日 デモシカ記 トラックバック:0 コメント:0

毎日新聞の社説「サマワと日本」

 今朝の毎日新聞の社説は「サマワと日本」と題した「大社説」である(社説欄はどこの新聞もそうだが、いつもは2本載っているが、「ここぞ」というときに、1本だけになる。それが「大社説」)。毎日はこのところ「視点」という署名のある社説欄で「サマワと日本」という連載(?)を続けてきた。14人の論説委員が書いたそうだ。今回の「大社説」はそれを締めくくる「社論」ということになろうか。
 苦労しているのは分かるが、一言で言うと、無残である。そもそも書き出しが「サマワにいる自衛隊の滞在は延長せざるを得ない状況だ」とある。「延長せざるを得ない状況」というのは、まことに奇妙な表現である。毎日新聞として「滞在延長」を主張しているわけではないらしい。つまり「状況」がそうだ、というわけだ。「状況追随」ということか。ところが、こんなふうにも書いてある。
 《延長反対が多いの自然のことだ。今では平和願望は日本の国民性にまでなっている。人々に伝わってくるイラク情勢は危険が増したようにしか見えない。自衛隊にそろそろ戻ってきてほしいと願うのは当然のことだ。
 もし国民の願望をかなえるのが政府だとすれば、撤退を考えるのが正当な政府だ。
 その願望に反する結論を出すからには国民をもっと長時間にわたって説得し、延長論を多数派にしていく努力をするのが民主主義というものではないか》
 なんだかずいぶん乱暴な言い方である一方、あいまいでもある。「国民の願望」はともかくとして、毎日新聞としてどう考えているのかが知りたい。
 いろいろ書いた後、結論部分の書き出しがまた奇妙である。
 《こうした政府の国民への説得なき決定を含めた現状を踏まえれば、これからは自衛隊の引き際がもっとも大事なことだろう》というのである。「引き際」とはつまりは「撤退時期」ということになろうが、それが「もっとも大事なこと」なのは当たり前ではないか。
 続いて《政治的決断なしには撤退はなし得ない。ということは政府は撤退の時を演出する義務がある》とある。前半は、ばかばかしく当たり前。だから「ということは」以下がまったく意味不明である。しかもここで、筆者は「演出」という言葉をどういう意味で使っているのだろうか。ちなみに、「引き際の演出が政府の仕事だ」というのが、この社説の大きな見出しである。
 オランダ軍撤退後の対処について《例えば……アジアの友好国に守ってもらうよう依頼してみるのも自衛隊の存在意義をアジアでアピールする好機となるかもしれない》という「提案」にもびっくりした。ここで「アジアの友好国」とは韓国を指しているのだろうか。いずれにしろ、「自衛隊の存在意義をアジアでアピールする好機」とはとても思えない。
 最後の部分。《状況次第でいつでも撤退できる心構えがモノをいう。国内での撤退願望が強力であり続けることが、こうしたサマワの自衛隊の存在を多方面でフルに生かす上でも大事なことだ》
 毎日新聞に言われなくても(この社説が認めているように)「国内での撤退願望は強力であり続ける」だろう。ふたたび言えば、毎日新聞はどう考えているのか。
 朝日新聞のようにシンプルに「撤退せよ」というのは現実的ではないと考えているのは、よく分かる。だが、それならば、いま撤退することのメリットとデメリットをていねいに論じ、読者に判断の材料を与えるべきではないか。一方で「国民の願望」をあげ、もう一方に「小泉内閣の説明不足」をあげる。で「引き際の演出」が大事なのだという。この社説を読んだ読者は頭が混乱するだけだろう。

2004年12月06日 感想/新聞編 トラックバック:0 コメント:1

「網野史学」

 『季刊東北学』第一号が「<国史>を越えて 網野善彦追悼」を特集している。「編集部から、この私に網野善彦について書くように言われたとき、正直、私は当惑した」と書いている色川大吉氏の「網野善彦と『網野史学』」がおもしろかった。少しずれてはいるが共に東京大学国史学科に学んだ。だが、専門領域は網野は中世史、色川は近代史である。網野氏が「一知半解のマルクスス主義者で、図式的な唯物史観をふりまわしていたアジテーターの一人」に過ぎなかった二人の若き日の出会いから、かなりの年月の空白の後、晩年、ある出版企画の編集委員としての交流まで、網野氏との個人的なかかわりを含めて、色川氏は厳しく網野氏を批判している。むろん「彼が実証的な歴史学者でありながら一個の見識を打ち立てた歴史家であり、その上、すぐれた啓蒙家」であったことを認めた上でのことではあるが。
 色川氏は網野氏の視野を大きく広げることになったシリーズ『日本民俗文化大系』『海と列島文化』に関わって、「元小学館編集部の山崎晶春編集長の功績」に言及していることにもふれておこう。私も新聞記者時代、この山崎さんと少し交流があった。どっちの企画だったか、忘れたが、完結記念の集まりがあって、網野さんも含めて2次会に神保町の「サーカス」に流れたのを懐かしく思い出す。
 『季刊東北学』の特集で色川氏を含めて多くの論者や指摘している「網野史学」の問題点はほぼその通りだと思う。網野氏がいかに「非農業民」の重要性を語り、「百姓は農民ではない」と言おうと、この列島社会は長く、農業が中心になって営まれていたことはまちがいない。

2004年12月04日 感想/その他 トラックバック:0 コメント:1

開店ご挨拶

ブログなるものを開設してみました。さて、どうなりますか。

2004年12月03日 ご挨拶 トラックバック:0 コメント:0

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