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駆け出しのころ⑪

 これは「自慢話」かもしれない。新聞記者の「自慢話」というのはたいてい「こんな特ダネを取った」といったものである。「自慢話」は何にせよ聞き苦しいものであることは分かっているが、「特ダネ話」ではないので、ここはご寛容願う。
 鹿児島支局から西部本社に転勤した後、鹿児島に仕事で出張したことがある。支局に知り合いがいて、夜、天文館(鹿児島市の繁華街です)に呑みにいった。そこで、NHKの記者にあった。いま鹿児島で警察を回っているという。私が自己紹介すると「えっ、○○さんですか」といって、私の顔を見る。何を驚いているのかと思ったら、鹿児島の警察で《新人記者の中であいつは優秀な記者だった》と警察官が語り伝えている記者が3人いて、その一人が私なのだという。つまり「三羽烏」である。
 鹿児島から異動してまだ5、6年しかたっていなかった時期だと思うので「語り伝えられている」というのはいかにも大げさだが、まあ、そのときの彼はそう言ったのである。
 後の二人はもちろん私の知っている記者で、重なって警察を回っていた時期もある。二人とも誰もが認める「特ダネ記者」だった。彼らに比べて私は「特ダネ記者」でも何でもなかったのだが、どうして「三羽烏」に加わったのだろうか。
 そのNHKの記者によると、警察官たちは「○○さん(私のこと)は、記事が正確で信用のできる記者だった」と言っているという。まあ、ほめられてたのか、扱いやすい記者と思われたのかは分からないのだが、少なくない新人記者が通り過ぎる警察で私のことが警察官たちの記憶に残っていることを知って、素朴にうれしかった。
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2005年02月22日 デモシカ記 トラックバック:0 コメント:0

駆け出しのころ⑩

 鹿児島には結局4年間いたことは前に書いた。仕事をし始めてすぐ「職業選択を誤ったかな」と思った時期があった。
 新聞記者に必要な資質は何だろうかと考えてみると、いろいろあるけれど、まずは旺盛な好奇心と行動力が重要だ。好奇心がないわけではなかったが、私は大体が気が小さい、どちらかというと、「書斎派」の人間だった。世の中にはいま会った人とたちまちにして十年の知己みたいに話せる人がいるが、そうした芸当はできなかった。
 いま事件報道のあり方がいろいろ批判されている。警察へ依存も、そうした批判の一つだろう。だが、捜査権力を持って事件を調べているのは警察にほかならない。まずは警察から情報を取るしかない。公式の発表以外、警察はいかなる情報を持っていて、いかなる方向で捜査を進めているのか。あるいは、秘密裏に捜査を進めている事件はないか。こうしたことを取材することになる。ありていにいえば、警察官となかよくなって「ネタもと」を作ることが重要になる。とてもそういうことは出来ないと、仕事を始めてすぐに思った。
 実際、4年間の支局生活で、私は独自の「ネタもと」など作ることはできなかった。当然、そういうルートで入手する特ダネを書くことはなかった。
 だが、仕事をしているうちに、この種の「情報ゲッター」だけが、優れた新聞記者ではないだろうという気がしてきた。いまの時点でそれを少し整理して考えれば、次のように言えるだろう。情報の選別、整除の仕方。入手そのものは別に難しくもない情報を収集して問題を引き出す視点。そうしたことを紙面で具体化する(つまり記事を書くときの)文章力、表現力。こうした側面でも新聞記者は大いに優劣を問われるのである。
 新米記者として私は優れた「情報ゲッター」にはなれそうもないことはすぐに見当がついた。それが「職業選択を誤ったかな」という思いにつながったのである。だが、別の面では、この仕事(新聞記者)もなかなか面白そうだな、と考えるようになった。

2005年02月13日 デモシカ記 トラックバック:0 コメント:0

駆け出しのころ⑨

 ふつうの人がふつうの日々を送っていれば、まず新聞に登場することはない。その新聞に毎日、記事を書くのだから、いくらひよっことはいえ新聞記者となれば、つまり「非日常」の出来事に日々接することになる。例えば、こんなふうに。
 ある日、県警の記者クラブのソファで眠っている。鹿児島市消防本部とつながっているスピーカーから「救急車出動指令!」が流れる。早速、電話で消防本部に電話する。たいていは「急病人」だったりして、何ということはないのだが、何かの「事故」だったりすると、取材が始まる。そして、しばしば、われわれも「出動」ということになる。事件にしても事故にしても、たいていの場合、この「救急車出動指令!」が一番早い。
 私を含めて新聞記者のひよっこたちが何人もいたから、みんな「非日常」に接することがまだまだ新鮮だったということもあるのだろうが、「現場」に行くことが多かった。その結果、毎日のように「死体」を見るのだった。ある日は、交通事故の死者。次の日は、飛び降り自殺者。また次の日は焼死体といったぐあいである。たまたま殺人事件の現場に警察官より先に着いてしまって、血まみれの死体に出くわしたことも一度だけあった。
 とはいえ、それほど重大な事件を取材した経験はない。駆け出しのころの取材で記憶に残っているのは、災害である。鹿児島は台風がよく来る。シラス台地が広がっていた。シラスというのは桜島の火山灰に由来する土質で、雨にもろい。
 今回少し調べてみたら、私が鹿児島に赴任した翌年の1971年7月と8月に大雨被害が起きている。とりわけ台風19号による8月の大雨は鹿児島県内で47人の死者を出した。こんなときは、道路も寸断されてしまうので、なかなか現場には行けない。しかも県内のそこいら中で「裏山が崩れて○人が生き埋めになった」という出来事が起こる。県警本部にいて、各地から入ってくるこの手の情報で記事を次々に書くのが精一杯である。

2005年02月10日 デモシカ記 トラックバック:0 コメント:0

駆け出しのころ⑧

 鹿児島支局には結局4年間いた。2年経ったとき、例の支局長が東京本社に転勤した。支局には社有車が一台あって、ドライバーがいた。この人は当時もう60歳を過ぎていた「戦前派」である。「支局長の転勤が決まったときは二度目の終戦を迎えたような気持ちだった」と、この人が後で語っていた。私はむろん「一度目の終戦」も知らないわけだが、気持ちはよく分かった。ドライバーは正式社員ではなかったし、ずいぶんとつらい思いをしたのだろう。いじめられていたデスクも一緒に転勤した。
 後任の支局長と次長はともに西部本社採用の人で、二人ともきわめて「まともな人」だった。支局内の雰囲気はいっぺんに変わった。以前は支局で酒を呑むなどまったく考えられなかったが、今度は支局員がみんなで月に一度は鍋パーティーだった。当然、焼酎もビールも登場である。
 私の鹿児島4年間は、大げさではなく「天国と地獄」を両方とも味わった気がする。もっとも、最初の支局長に対しても「恨み」のようなものはない。もちろん、当時はずいぶんと悩まされたが、考えてみると、この人との出会いで、私は人間として相当にタフになった気がする。

2005年02月05日 デモシカ記 トラックバック:0 コメント:0

駆け出しのころ⑦

 大学を卒業するまで大した苦労をしたこともない東京育ちの青二才だったから、この支局長との「出会い」はショックだった。理不尽な仕打ちをいろいろ覚えているが、たとえば、こんなことがあった。
 ある日、例によって大した記事ではなかったと思うけれど(だから、具体的な中身はまったく記憶にない)、どこかの社に抜かれて、「ちょっと支局にあがって来い」ということになった。いやーな気持ちで支局に戻ると、支局長が烈火のごとく怒っている。「お前はこのままではとても支局の記者としてやっていけない。これからすぐに指宿の通信部に行かせる」というのである。
 鹿児島県内には鹿児島市の支局以外に主要都市に通信部と呼ばれる通信網があった。記者は一人で、当時はたいてい地元採用の人だった。いまはそんなことはなくなったが、新聞社は雇用形態がさまざまだった。通信部記者は定期採用された記者と違って、最初は通信員といったかたちで雇用され、何年かたって「登用」されて正社員になる人がほとんどだった。指宿市は温泉で有名な薩摩半島の町である。当時はそこにも通信部があって、地元新聞から移ってきた年配の記者がいた。
 鹿児島県内の人事は自分が握っているのだから、だれを支局に置き、だれを通信部に配置しようと自分の裁量内というのが、支局長のリクツだった。いくら支局長でもそう単純に人事はいじれないことは後で知るが、何せ、こちらは新聞社の内部はもとより世間知らずの青二才である。ただ、数年の支局生活は仕方がないとしても当然、東京に帰って記者として活躍するのだと考えていたのだから、「指宿通信部に行け」と言われて、もうお先真っ暗と思ってしまった。
 「すぐ、これから赴任しろ」というお達しだった。で、私は「お先真っ暗」と思いつつ、仕方がないので「では、これから用意をして……」などとぶつぶつ言いながら、その場を去ろうとすると、今度は「何を言っているのか。そこに立っていろ」と前言を翻す。結局、そのときは一時間ほど立たされて、放免になったように覚えている。小学校以来、それなりの「優等生」だったから、立たされたのは初めてだった。

2005年01月08日 デモシカ記 トラックバック:0 コメント:0

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